未知のなかば 未知先案内人

interview

第6回 精神疾患、その原因を追い求めて

ゲノム、これによってもしかして

病院では急性病棟を任されて、夢中で取り組んでいるうちにあっという間に3年程が経ちました。
その頃です。当時の精神科研究ではドーパミン受容体というものが重要と考えられていたのですが、このドーパミン受容体の遺伝子配列が解明されたことにより、従来の薬理学では分からなかった新しい型のドーパミン受容体遺伝子が明らかになったんですね。これには随分興奮しました。また、複数のメンバーが同じ病気に罹っている家系で、病気の人だけが何番目の染色体のどこの部分を共通に受け継いでいるかを調べることで病気に関係する遺伝子を突き止める「連鎖解析」という研究手法が出てきました。これを用いて、精神疾患に関係する染色体の場所が報告された時には「ああ!もう遂に!」と思った記憶があります。結局それが精神疾患の原因そのものではないということは、ほどなくして明らかになったのですが。そのような中、ヒトの全ゲノムシークエンスを決定するヒトゲノムプロジェクトが始まり、日本でもその研究の一端をになうことになりました。
このような状況の中で「精神疾患の評価を注意深く行いながらゲノム解析研究を進めていけば精神疾患の原因がわかるんじゃないか? 」と感じました。だったらまた研究したいな、と。

それで、当時、長崎大学で人類遺伝学教室を率いていた新川詔夫先生の研究室に入りました。新川先生はとても面白い先生で、おおらかというか、その頃はまだ時期尚早と考えられていた精神疾患と遺伝子の関係という研究テーマについて快く受け入れて下さいました。全国からいろんな診療科の人が新川先生のもとに集まってきていて、文字通り「不夜城」で夜通しワイワイと研究をしている感じで活気にあふれていました。研究以外でも、しょっちゅう、みんなで何かを作って食べたり、遊びに行ったりで面白い研究室でした。今でもその頃のメンバーやOBの先生方達とは交流が続いています。


富田博秋

フランスで開催された国際精神神経薬理学会にて


ただ、最初は家系内で精神疾患のある人とない人で遺伝子を解析して違いが見付かれば、と思っていたのですけれど、ひとつの遺伝子が原因ではなくてたくさんの要因が複雑に絡み合って起きる精神疾患の場合、そんなに簡単にはいかなかったんですね。それで、新しい技術を学びたい、と考えていた時に機会に恵まれて、ロサンジェルスとサンディエゴの間の学園都市にあるカリフォルニア大学アーバイン校に留学しました。そこには、精神疾患の患者さんの脳内でどのような分子変化が起きているかを直接調べるためのブレインバンクがありました。ブレインバンクとは、亡くなった後、将来の精神医療の発展のために脳を寄付して下さる方々の脳組織を保存する施設です。そこの研究グループに属して、それらの脳を対象に精神疾患に関係がある遺伝子発現変化を探す研究をやっていました。

6年間アメリカにいて、上の子どもは丸々小学生をアメリカで過ごし、このままアメリカで暮らすか、日本に戻るか、大分悩み、最終的に日本に帰ろう、ということになりました。そして、縁があって東北大学医学部に来ることになりました。2006年のことです。東北大学では大学病院での診療活動も行いながらも、精神疾患の病態解明や治療薬の奏功機序を調べる研究などに取り組んでいました。
しかし、2011年に私の生活ががらりと変わる出来事が起こりました。
東日本大震災です。

東日本大震災

東日本大震災

震災直後の研究室の様子

すぐに宮城県や仙台市と東北大学病院の精神科の医局等が連絡を取り合いながら被災地域にメンタルヘルスの専門家を派遣することになりました。私は研究と外来診療が中心で病棟の担当がなかったのですが、研究室の電源が落ちて、試料も試薬も使えなくなって当分研究できる状況にはなりそうもなく、通常の外来もしばらく開けないということで、ほぼ毎日被災地域に行きました。最初は、仙台市宮城野区、若林区の沿岸部の避難所を回っていました。

最初はこころのケアを必要とされている場所にこころのケアの専門家として対応するというような形ではなく、何の情報もないまま、避難所に指定されている学校やコミュニティセンター、高齢者の施設等を訪れて、そこがどういう状況かを確認することから始まりました。精神科の治療薬を処方させて頂いたり、調子が悪化した方は医療機関に繋いだりというようないわゆる専門家としての活動を行う場面もありましたが、いろいろな人に声をかけ、様子を伺い、ただ話を聞いたり、こころのケアや医療保健と関わりないことで求められていることを手伝ったり、付き添いをしたりということも多くありました。どう行動したらよいのか定かではないまま、昼間、被災地域に入って一日活動し、夜は戻っていろいろな情報を検索して使えそうな情報を得たり、行っていることの妥当性を確認したりすることを繰り返しました。自分自身の活動も全体的な支援体制も非効率的に思えて、もどかしく思うことも多くありました。胸が押しつぶされそうに感じる状況や無力感を感じることも少なくありませんでしたが、皆さんが避難所の運営や困った人のために懸命に活動し、私達の訪問を歓迎してくださったことで私達の方が励まされながら、また、進むべき道を示してもらいながら活動していたように思います。振り返ってみれば、私自身も社会も大災害に対する備えが十分ではなかったと思えるところが多々あります。

アメリカでは「災害が起こったらこうする」という危機管理のシステムがあって、いざ災害が起こったらそれに基づいてみんなが動く仕組みがあるのですが、それは震災後ずっと経ってから知ったことで、当時は何も知りませんでした。早速入手した2011年出版の「災害精神医学」というアメリカの教科書の翻訳出版を行いました。日本にアメリカのシステムをそのまま導入することはできないまでも、災害が起こった時に、救援に来た人が誰とどういう風に連携するか、情報をどのように管理、共有するか、そういうシステムやルールがあらかじめ決まっていて、最初から全体的な方針や見通しがあったうえで活動できたら、もっと違ったと思います。次に起こりうる大きな災害のために、そういう体制づくりというのは今から考えなければならないことだと思います。

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