未知のなかば 未知先案内人

interview

第9回 オファーがあれば受け入れる。それがフォワードでもバックスでも

スペシャリストを目指す

学生時代の話に戻ると、どの分野も面白くて6年生の秋になってもまだ専門の科を決めかねていました。ただどちらかというとその時は広く疾患を診るというよりは、スペシャリストがいいかな、と思って。眼科ってすごく機器が多い科なんです。テクノロジーの発達によって大きく変わっていく分野だと感じました。最新の機器に精通して診断や治療ができるようになればいいな、と。あと僕、縫い目とか綺麗じゃないとすごく気になる方なんですよね。繊細な手術が多い眼科は僕に合っていると思いました。

2007年頃、東北大学病院手術室にて

90年ごろから眼科の疾患で原因遺伝子がいくつも発見されるようになって、分子生物学(分子のレベルで生物の解明を目指す学問。特に遺伝子を扱う)を研究するため大学院に入りました。その後、留学中の同級生が、家系を使った連鎖解析の研究をしているラボがある、というのを教えてくれて、その流れで2年間アメリカのミシガン大学に留学してゲノムの研究をしました。
でも、2002年に東北大学病院に戻ってからは研究というよりはとにかく臨床、ひたすら病棟に入りびたりで年末年始もなく、毎日のように手術があって。夢中というか・・・とにかく毎日忙しくて忙しくて、8年くらいそんな感じでした。

東日本大震災

いつものように手術をしていたある日、突然大きな揺れが手術室を襲いました。東日本大震災です。
無影灯(手術室の照明)がグラグラッと揺れて、無影灯だけではなくて天井まで落ちる! と思いました。天井の下は全身麻酔をした患者さんです。どんなに大きく揺れても目を覚ますはずもなく、申し訳ないけど落ちてきたら、ちょっと・・・正直なところ助かる確率は低いと感じました。次に考えたのはその場にいるスタッフのことです。僕は執刀医(手術のリーダー)だったので、ここにいるみんなを死なせるわけにはいかない、そのためには何をすればよいか、無影灯や天井が落ちた場合どうすれば一番良いか、激しい揺れのなか必死で考えました。
幸いなことに天井は持ちこたえ、そうこうしているうちに電気が消えて非常電源に切り替わり、できるだけ手術を中断するよう手術室内にアナウンスが流れました。ただ、手術の段階としてそこで引き返すのは難しかったんですよね。最後までやるしかない、と判断して、14時46分の地震発生から16時くらいまで余震と余震の合間を縫って手術を続けました。
その後は、一か月くらい記憶が飛んでいます。ほとんど病院で過ごしていたとは思うのですけど。当時、眼科は教授がいなくて准教授である僕が眼科長代理を務めていました。だからたぶん、入院している患者さんをどうするか、医局員の安否確認と仕事や生活のケア、医師の派遣先病院との調整、眼科代表として病院の災害対策本部の仕事・・・・今考えても、やらなければならないことがたくさんあったと思います。でもこの間の記憶はほとんど残っていないです。

2011年3月17日 大学病院眼科病棟にて 医局震災対策ミーティング

平時では必要、ただ有事には?

震災前までは、眼科医として、大学病院の医師として、ずっとその道のプロ、スペシャリストを目指していました。周りからそういう期待もされていたと思います。ただ震災のような究極の場面では、難しい手術ができるとか、最新機器を使いこなせるとか、関係ないんだな・・・って。スペシャリストというのは、平穏な社会があって初めて必要になる存在なのだと感じました。生きるか死ぬか、そういう場面では、ケースに応じて何でもできなければならない。医師としてはもちろん、管理や調整をしたり何かを手配したり誰かを励ましたり寄り添ったり・・・。震災のような有事の際には要望があったら何でもやる、その時求められている役割にどんどん変わっていける能力が必要なのだ、と痛感しました。
特別な治療を必要とする患者さんにとってスペシャリストは必要な存在ですし、ずっとスペシャリストでありたいと思っていました。もしも東日本大震災が起きていなければ、スペシャリストへの道をひたすら突き進んでいたような気がします。

ToMMoへ

怒涛の震災後の時期を乗り越えた秋ごろに、当時医学系研究科長だった山本雅之先生に「ちょっとイギリスに行ってみないか」と、突然言われました。なぜかプライベートで通っているスポーツクラブで。山本先生が僕のことをご存じだとも思っていなかったくらいなので、なぜ僕に? というのがその時の本音です。特に新しい組織を作るからとか、そういう事情もよくわからず、言われるがまま11月にイギリスのオックスフォード大学、UKバイオバンク、ケンブリッジのサンガー研究所に視察に行きました。

2011年秋 サンガー研究所視察

研究体制のすばらしさにもびっくりしましたが、なにしろ50万人分のバイオバンクという規模がすごくて。それまで僕が知っていた数百というレベルのバンクと違いすぎて、とにかく圧倒されました。のちに東北大学でも10万人単位の規模のバイオバンクを作るということを聞き、なんというか・・・その頃はうまくイメージできないくらい桁外れな話でした。眼科医である僕がどんなふうにこの事業に関わっていくのか、よくわからないまま話がどんどん進んで、いまでこそ数百人いるToMMoの最初の十数人のメンバーになりました。
その時になってもまだ、まさかこんなに長く深くToMMoに関わることになろうとは・・・。その時僕のなかにあったのは、立ち上げの大変な期間だけでも山本先生を支えてあげたい、サポートしたい、という気持ちです。なんか守ってあげたいというか。それというのも、当時はバイオバンクの価値も今ほど認識されていなかったうえに、立ち上げのためにやらなければならないことがいっぱいあって。資金、運営、人材・・・課題が山積みでした。失敗前提で「泥船」と呼ぶ人もいたようです。事業そのものに批判的な意見もありました。実のところ僕も「ToMMoに行くのはやめたほうがいい」と言われたりしました。
そんななかにいる山本先生を放っておけなかったんですよね。僕に声をかけてくれた山本先生を支えて成功させてあげたい・・・、僕独自の表現としては「山本先生を漢(おとこ)にする!」(笑)。 大きなお世話だと言われそうですけど。
あと震災を経験して、ずっと眼科医だけをやっていく、というあり方に疑問が生じたことも僕を後押ししました。スペシャリストを目指していた時の自分であれば回り道と感じていたかもしれません。もしも震災と関係なくバイオバンクや新設の組織の話があって声がかかったとしても、その気にはならなかった、そう思います。

ここまで大学とか留学とかToMMoに参加したいきさつだとか、なんだか意識しないで流れのままに進んできたように思われるかもしれません。たしかに頼まれるとやらなければと思ってしまうし、目標を決めて「こっちだ!」と一直線に向かって行くようなタイプではないです。
ただ思い返すとToMMoに参加した時、あれは間違いなく重要な岐路でした。ゲノム解析が進展しているこの時代にゲノム医療が必要になるのは間違いない、「ゲノム医」になろう、ゲノム医療をこの東北から始める、と腹をくくったこと、「ゲノム医」になるからには、まっとうな眼科の臨床医には戻れないだろうなと感じたことは覚えています。その後「ゲノム医」を目指す一環として、臨床遺伝専門医も取得しました。
ToMMoという選択が良かったのか悪かったのか、まだわかりません。ただ、普通に臨床医をしていたら経験できない、得難い経験をしたということは断言できます。

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