未知のなかば 未知先案内人

interview

第9回 オファーがあれば受け入れる。それがフォワードでもバックスでも

僕がToMMoで所属しているセクションは「広報・企画部門」「ゲノム解析部門」「総務・企画事業部」「地域支援センター調整室」「脳画像コホート室」「遺伝情報回付推進室」「地域支援仙台センター」(すべて2021年3月時点)と多岐にわたります。いくつかのセクションでは組織の長として仕事をしています。2019年からは副機構長も拝命しました。今となっては広く深くToMMoに関わっている僕ですが、実は参加当時はここまで深くToMMoに関わるとは思っていませんでした。

布施 昇男 東北メディカル・メガバンク機構 副機構長/バイオマーカー探索分野 教授

のびのびと・・・?

出身は山形県山形市の北の方、隣の市に接したのどかなところです。農業を営んでいた両親は僕の進路について何か言うこともなく、ずっと好きなことをやらせてくれました。ToMMoに参加する時も銀行(メガバンク)に転職すると思ったみたいで(笑)。その時ですら「医者辞めるのかぁ」と反対も驚きもせず受け入れてくれました。
そんな両親のもと、のびのびと育っていたのですが、気が付けば周りからできて当たり前、のような空気を感じ取っていました。自分から手を挙げるとか、競争心があるとか、そういうタイプではなかったと思いますが、できるよね、という雰囲気を感じると期待に応えなければ、と思っていました。体が大きくて目立っていたのも理由の一つでしょうか。リーダーを任されることが多かったように思います。高校の時には、入団者がいなくて困っていたのを見過ごせなくて応援団に入ったら、そのまま団長にまでなってしまい、周りはむさ苦しい応援団の親衛隊(もちろん男)、その上しょっちゅうリーゼントの不良に喧嘩を売られて・・・爽やかな青春とは程遠かったですね。

医学部を目指す

宇宙飛行士とか子供らしい夢を描いていた時期もありましたが、高校生くらいになると、誰かをサポートして社会に貢献できる仕事がいいのかなぁ、と考えるようになりました。そこで医学部か法学部にと思っていた頃に、健康だった僕としては珍しく病院に行く機会がありました。その時の担当の若い研修医が、迷っちゃってなかなか診断できなかったんですよね。それを見て医師という職業が、すごく身近というか、現実的に思えました。意外と「あなたはこの病気です」のようにはいかない、理論だけでは割り切れないところがある仕事なんだ、面白そうだな、 と感じて医学部を目指すことにしました。ちょっと周りの期待もあったかもしれません。ただ、じゃあ医者になるかっていうと、そこまで具体的なイメージは・・・実はなかったです。絶対に医者になる、というよりは、医学部には行くけれど別の仕事に就いてもいいし、という、漠然とした気持ちだったように思います。

ラグビーに明け暮れて

それで東北大学の医学部に入学して、それ以降留学したりもしましたけど、ほぼ星陵キャンパス(東北大学医学部、東北大学病院等があるキャンパス)にいます。
大学では高校の先輩に誘われて、ラグビー部に入りました。他にもアイスホッケーとかボートに興味があったり、学友会(全学)の応援団から熱心にお誘いを受けたりしたのですが、入部した以上は途中でやめるのは嫌だったので、そのまま6年間ラグビー三昧。5年生ではキャプテンもやりました。実はラグビーは医師になってしばらくの間も続けていて、地元の社会人クラブチームに入って、昼間は手術、夜はナイター練習、日曜日は試合、という・・・。今考えるとよくやっていましたね。家にほとんどいなかったので、その頃のことは、いまだに家族から文句を言われています。

1986年2年生 夏合宿(田沢湖畔:最後列水色ジャージ)

1989年5年生キャプテン時5,6年生の同志と
東日本医科学生体育大会(草津、後列左から2人目)

振り返るとラグビーから「組織」というものを学んだと思います。キャプテンとして必要とされれば責任を果たさなければならないし、サポートが必要な人がいれば自分は徹底的に支える側に回る。団体競技はポジションに応じて自分を変えなければなりません。求められている役割を理解して、自分をその役割にはめ込んでいく。ラグビーを通してそういうことがだんだんできるようになったのだと思います。

未知先案内人 記事一覧