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感染症の出口戦略

感染症に限らず、疾病対策の基本は費用対効果分析です。費用対効果分析とは、ある疾病を〇〇の程度減少させるためには、いったいいくらの費用がかかるのかを検討するもので、がん検診の対策立案などにも広く用いられています。費用対効果分析では「命」か「経済」かの二者択一を行うのではなく、ある効果を得ようとすると費用は必ずかかるものであるから、両者が最もバランスよく保たれるポイントを議論しようとしています。
ある疾患に関する公衆衛生学的対策の王道は以下のとおりです。

  • リスクを予測する。個人のリスクおよびその疾患の広がりなどを含む
  • ある対策にどれほどの効果があるのかを推定する
  • 対策には常にコストや犠牲を伴うため、その対策の費用対効果を検証し、情報公開と透明な議論を経て実施有無の判断を行う

 
このように費用対効果分析は疾病対策の根幹を形成しています。
では費用対効果分析からみた具体的な出口戦略とはどのようなものでしょうか。まずは命、健康を守るという観点からは少なくとも以下の3つの指標を検討していかなければなりません。

1. 実効再生産数

「1人の感染者がその後何人の方に感染させるか」の指標です。1人を超えると感染者は増加し、1人を下回れば感染は終息に向かっていくと直感的に理解できます。この指標が「1」を下回ってくれば、その感染症の致死率にもよりますが、出口に近づいていると考えられます。
この実効再生産数はどのように算出されるのでしょうか。ある指標を算出するには通常、モデルというものを構築し、そこにパラメーターと呼ばれる数値を代入してその指標を導き出します。身近な例でいえば、天気予報では、数値予報モデルに世界中から送られてくる各地点の気圧、気温、風などの値を代入し、天気予報や警報の発出を行います。同じように感染症では、SEIRモデルというモデルが提唱されており、そこにパラメーターを代入し、1人の感染者がその後何人の方に感染させるのかの数値をはじき出しています。SEIRのSは感染症に対して免疫を持たない者(Susceptible)、Eは感染症が潜伏期間中の者(Exposed)、Iは発症者(Infectious)、Rは感染症から回復し免疫を獲得した者(Recovered)を指します。パラメーターとしては、以下の3つの数字が必要です。
1) 感染率
2) 潜伏期間
3) 感染期間
このパラメーターの中で、「感染率」が非常に重要な数値です。これをできるだけ正確に得るためには、感染の有無を調べるための十分な検査体制が整備され、その人が何人の方に感染させたかをつぶさに調べていくことが必要です。疾病対策の基本である実態把握のためには、当然ながら検査を受けた方の数と陽性の方の数を全国から集計し、迅速かつ正確に一元管理するシステムも必要です。未だ完備されていないのであれば、データ送信を電子化することも考慮すべきです。
また、モデルにはいくつもの種類があり、かつパラメーターも数値の採用に関していろいろな選択肢があります。その指標算出の仕方について、研究者コミュニティで議論していくことも大切な手続きと思われます。

2. 検査体制

これを整備することは感染症制御の基本です。検査をして陽性であれば、病院のみならずホテルなどもフル活用して隔離します。十分な検査体制が整備されていない状況では有病率や上記の実効再生産数などを十分な精度で算出することはできません。有病率に関しては陽性率などを代替指標として用いることもある程度は可能です。例えば、PCR検査の感度が80%、特異度が99%、陽性率が10%である場合、有病率は0.14%と推定はできますが、感度は現時点でそれほど正確に算出されているものではなく、報告によって50%~80%くらいの幅があります。感度があやふやな段階で有病率を推定することは誤った数値を出してしまう危険があります。やはり1日当たりの検査実施数は必要かつ重要な指標の一つです。

※感度、特異度、陽性率などの用語については、日本疫学会の「新型コロナウイルス関連情報特設サイト」感染症疫学の用語解説のページの「7. 検査の正確さの指標」をご参照ください。

3. 医療体制

感染者が多くなった場合でも、重病者に対する医療体制がしっかり整備され、その受け入れ体制に余裕があれば、死亡者をある程度は減少させることができます。ある地域にはいくつの病院があり、そこには何床のベッドがあって何人の患者さんを受け入れることができるのかも、特に命を守るという観点から重要な指標です。

ここまでは命という観点からの指標をみてきました。ここからは、経済という視点からの指標をみていきます。

4. お金

感染症対策はその多くが人と人の接触を減少させる方向で実施されるものですから、どうしても経済的な損失が生じます。あまたの経済指標について、ある対策を実施した場合、どれくらいの時間が経過すると個々の指標がどれほど動くと予想されるのかを検討していくことが必要です。特に感染症では人と人が接触する可能性が高い業種ごとの経済指標に加えて、特定の業種が大きな痛手を負った場合に、マクロ経済にどのような影響があるのかも議論が必要です。対策立案には経済学者の参画は必須です。

5. もの

経済の柱のひとつである「ものづくり」にどのような影響があるのかをみなければなりません。自動車工業やパルプ・紙・紙加工品工業などの生産量はその対策によっていかほどの影響を受けているのか、食料品や日常品などはどうかなど、鉱工業指数や食料品工業指数やそれと類似した短期的な指標などのモニタリングが必要です。さらに直近の懸念としては、今必要とされているマスクや防護服などの医療や予防に使用されるべき「もの」について、供給が遅延するような事態を引き起こしていないかの確認が必要です。

6. ひと

医療関係者にかかる大きな負担は何らかの数値化を行い考慮すべきです。また、最も重要な「ひと」に関する指標のひとつには教育があります。学校を休校にするのであれば、教育という「ひと」への重要な投資が奪われるという費用(コスト)を考慮に入れなければなりません。家庭に閉じこもることで、虐待やDVなどの問題も深刻化するかもしれませんので対策が必要です。また、飲食業やホテル業などには人の心に栄養を与える効果があるのかもしれません。これを指標化するのはなかなか難しいですが、いずれにしても一律に不要不急だからいつまでも休業していいというものではないと思われます。それぞれの職業にはそれぞれの重要性があります。「ひと」を育てるあるいは癒すといった効果についても要検討とすべき指標です。これは特定の業種の収入減という指標とともに考慮されるべきものと思われます。

出口戦略の在り方

以上みてきたように、命に関しては1~3の指標を算出し、経済に関しては4~6の指標に鑑み、両者同時に並べて入口戦略と出口戦略を検討します。1~3の命に関する指標については、ひとつの対策が他の対策の効果を相乗的に上昇させることもありますし、経済に関する指標においても、失業・減収などから命や健康の問題にまた直結することもあります。要は1~6は常に有機的に影響し合っていることを念頭においておくことが必要です。また、行動変容には「脅し」手法はあまり有効ではなく、シンプルなメッセージと自然と入ってくるものである必要があることもこれまでの延々と続けられてきた公衆衛生対策で明らかとなっています。「人の行動はおいそれとは変わらない」ことを前提に対策を検討します。出口戦略としては、命に関する1~3の指標がすべてある閾値を下回るあるいは越えて青信号となり、かつ経済に関する4~6の指標すべてが赤信号になった場合には、おそらく躊躇なく出口である休業要請解除に進む判断が下されますが、現実には6つの指標が赤、黄色、青の入り混じった状態になります。指標群はこのような状態であるが、何を重視し、何を守ることが費用対効果の観点から最も賢明であるかを判断し、段階的に〇〇のような解除を行っていくという決定に至ります。この過程で重要なことは、それぞれの指標がどのように算出されてきたのか、出てきた指標群をどのように議論したのかを十分に公開し、さらに国民に向かって丁寧に説明していくことです。最終的にどのような出口戦略であっても、万人の利益が最大化されることはなかなか困難で、身体が弱い方にとっては早期の解除は命に係わると思われるでしょうし、休業要請が長引く業種の方々にとっては、経済的に命を失うと思われるでしょう。したがって、入口である対策の決定を行ったのであれば、そのことで相対的に大きな損失を被ることになる方々には公的資金で補償をするあるいは家庭内における虐待やDVに関する対策が必要ですし、出口においては命に関わるリスクが高くなる方々に、自治体の保健師さんなどがより活動しやすくなるような措置が必要です。費用対効果分析で全体の戦略を描いて実行した後は、そこで大きなしわ寄せを受ける方々に必要な施策を実施していくことが求められます。また、ワクチンや治療薬の開発が実現された場合、あるいは逆に感染の第2波等が襲来した場合には、すみやかにその時点の数値で費用対効果分析を行い、遅滞なく対策を柔軟に修正することが重要です。

2020.05.08|栗山進一