未知のなかば 未知先案内人

interview

第2回 どこまでも「研究者」であり続けるために

米国へ。本格的な研究者へ

米国 筑波大学の大学院で、無事、博士号を取得し、ようやく学生(院生)の期間が終わりました。初めての就職先は米国のノースウェスタン大学。28歳の時に博士研究員として渡米しました。当時の僕は英語が苦手だったので、渡米前に、ボスになるダグラス・エンゲル先生に「英語ができないけど大丈夫でしょうか?」って聞いてみました。すると、「大丈夫だよ。scienceという共通語があるじゃないか」という言葉が返ってきて。それで渡米する覚悟ができました。ノースウェスタン大学では、基本的に大学院時代の続きで、ストレス応答に関わる転写因子に関する研究を続けました。あの頃、もっとも鮮明に覚えているのは、エンゲル先生の「研究を楽しんでいる様子」。本当に楽しそうで、僕も見習わなければいけないなと思っていました。それまで、研究とはひたすら耐えて耐えて耐えて地道に進めていくものだと思っていたわけですが、研究を楽しむことも大切なんだなと思うようになりました。今でも、時々、心の中でエンゲル先生が「研究を楽しめよ」と笑顔で語りかけてくるような気がします。

 ノースウエスタン大学に1年半在籍した後、日本に戻ってきました。そして、筑波大の山本研究室で研究を続けました。その間に結婚をし、子供が生まれて……日本に戻ってきて5年目に山本先生が東北大に移籍されることになりました。研究室はえらい騒ぎに。山本先生について仙台に行くか、それとも研究室をやめるか……悩んだ末に、僕は東北大学についていくことに決めました。

 東北大学の医学系研究科に移ってから1年後、創薬科学(持田製薬)寄附講座のスタッフになりました。「君の使命は創薬だ」と言い渡されて、製薬会社から来ていた研究員の方と接しながら、創薬の研究を始めました。今までやってきた研究と創薬を結びつける努力をしたわけですが、そう甘いものでもなかったですね……それでも、その時に僕とHくんという大学院生が一緒にやっていた研究が、現在、製薬会社での創薬のプロセスに役立っていると聞いています。その話を聞いた時に「初めて『世の中の役に立つ仕事』ができた」と思えて嬉しかったですね。父の言葉にあった「モノを生み出す仕事」の一端を担えたような気がしました。この寄附講座には3年間、在籍しました。そして、その間にすべての状況を激変させる出来事が起こりました……そう、東日本大震災です。

東日本大震災とToMMo

 3年前の東日本大震災……あの時の東北の被害と混乱ぶりは報道で伝えられていた通りです。僕の場合、家も職場も津波被害はなかったのですが、特に職場、つまり大学では研究室も動物施設などのインフラも地震の被害が大きく、被災直後は研究活動を復旧させるために必死でした。しかし、あの混沌とした状況の中で時折、「自分の仕事を復旧させる前にもっと甚大な被害を負った土地、津波被災地などを助けに行くべきなのではないか」と思い、葛藤していました。研究者なのだから、研究を復旧・継続させるのはとても大切なことだし、第一にやるべきことなのでしょう。でも、やはり……「迷い」がありました。

 震災の一週間後から、葛藤の中、故郷に帰った学生たちに「仙台は復旧に向けて動き出しているから戻っておいで」というメールを送っていました。また、研究室のWEBサイトに、復興しつつある仙台の風景写真をアップして、学生たちに呼びかけたりしていました。その後、『東北メディカル・メガバンク計画』が採択され、東北大学にToMMoが設立されました。

 ToMMoに移籍した最大の理由は「科学研究の基盤づくりに貢献したい」ということです。科学研究というものは実に大きな基盤の上に成り立っています。研究施設などのインフラ、過去の研究成果、研究室という人的環境……そういう基盤の上に研究は成り立っているし、僕自身もそれらの基盤の恩恵を受けてきました。山本先生からも常日頃、基盤整備の重要性を教わっていました。その恩返しという意味もあって、東北メディカル・メガバンクという大きな基盤の整備に参画したいと思いました。自分の今までの経験を基盤整備に活かせるのではないかと思い、「一肌脱ごう」と思ったわけですね。

 実際にToMMoで仕事をしてみて思うのは「貴重な経験をしているな」ということ。何もかもが新しい仕事ですし、宮城の各地域や文部科学省などと関わることも過去にはない経験です。今は基盤整備に全力を注いでいますが、ある程度、基盤ができ始めたら、僕自身も基盤を活かして少しずつ研究をやっていきたいと思っています。

 大規模なゲノムコホートを実施してビッグデータサイエンスを実践していくことは、ゲノム科学の世界的な流れです。そのためのバイオバンク整備は日本でも本当に必要なことだと思います。本来なら、こういう大規模バイオバンクと研究拠点は、日本全国どこに作られても良かったはずですね。でも、東北に作られることになった……それには、東北の地に恩恵をもたらす、還元していくという大きな意味があるのだと思っています。復興の原動力にするということ。ですから、やはりメディカル・メガバンクは他の地方ではなく東北にできて良かったんだなと思います。ビートたけしさんが「仙台を日本のボストンにする」と言うCMがありましたね【編集部註:トヨタ自動車TVCM『Re BORN(信長と秀吉)』公開期間2013/03/11-2013/06/12】。ToMMoが東北大学に設立されたことには、それと同じような意味があると思うんです。

 研究者って先が見えない職業だと思うんですよ。耐えて耐えて耐えたとしても陽が昇るかどうかは分からない。自分としては地道な苦労にこそ価値があると思いつつも、やはりその苦労に耐えきれないと思う時もある。本当に自分が研究者に向いているかどうかもはっきりとは分からない。常に心の中で葛藤しながら続けています。

 それでも、最近では「自分のような研究者がいてもいいかな」と思えるようになりました。大発見はできないかもしれないけれど……ヒトという生物の設計図である「遺伝子」の説明書に1行でも自分が書き加えられれば、それが生きた証になるんじゃないか……。

 だから今は……誰かに「辞めろ」と言われるまでは、研究者を続けようと思っています。

【2014年4月11日。東北大学医学部1号館第2セミナー室にて】

(プロフィール)
95年、静岡大学理学部生物学科卒。97年、筑波大学大学院医科学研究科修士課程(医科学専攻)修了。2001年、同大学院医学系研究科博士課程(生化系専攻)修了。博士(医学)。01年、米国ノースウエスタン大学博士研究員。02年、日本学術振興会 (未来開研究推進事業) 博士研究員、日本学術振興会 特別研究員(PD)、科学技術振興機構 ERATO山本環境応答プロジェクト博士研究員を経て、06年、筑波大学大学院人間総合科学研究科助手。07年、筑波大学大学院人間総合科学研究科助教。08年、東北大学大学院医学系研究科医化学分野助教。09年、東北大学大学院医学系研究科創薬科学(持田製薬)寄附講座准教授。12年、東北大学東北メディカル・メガバンク機構ゲノム解析部門准教授。[2014年4月現在]

(担当:清水修)

未知先案内人 記事一覧