未知のなかば 未知先案内人

interview

第3回 「死なない薬」を作りたかった少年の軌跡

絶対的な孤独を感じる時ってありますよね。自分は独りなのだという絶望感。その怖さ……ぼくが初めてそれを感じたのは小学生の頃でした。「人は死んだらどうなるんだろう」って考え始めて、考えれば考えるほど、怖くなって……。人は死んだら骨になって、墓に入って、そうなったら身体がないのだから、何も考えられない、何もしゃべれない、誰とも会うことはできなくなる。そんなことを考えて、強烈に「死にたくない」って思ったんです……。ぼくの生き方はすべてそのことから始まっている気がします。

寳澤 篤 教授

寳澤 篤  地域住民コホート室 室長
(個別化予防・疫学分野 教授)

 現在、ぼくは医学研究者として、東北大学東北メディカル・メガバンク機構(以下、ToMMo)で「地域住民コホート調査」という長期健康調査を行っています。宮城県内各地の特定健康診査会場にお邪魔して、健診に訪れた市民の皆さんにゲノム・コホート調査への協力をお願いしているんです。多くの方々が調査に協力してくださっています。

「コホート」というのは、元々、古代ローマ軍のひとつの歩兵隊を指す言葉で「特定の集団」のことを意味しています。これが疫学(医学の一分野)において転用され、「コホート調査」という専門用語になりました。コホート調査は「一定の集団の健康状態を長期間にわたって観察していく調査」のこと。最近は、疫学におけるコホート調査に「ゲノム解析」という調査手法が加味されて、世界的に「ゲノム・コホート調査」というやり方が主流になってきています。ToMMoがやっているゲノム・コホート調査には「東日本大震災被災者の皆さんの健康を見守る長期健康調査」という意味合いと「未来の医療を創り出す医学研究のための学術調査」という意味合いがあるんです。

心から離れなかった「死ぬことへの恐怖」

 出身は仙台です。現在のぼくは医者ですが、育ったのが医者の家庭だったわけではありません。ただ、親が大学の研究所の教授をやっていたので、家では、なんとなく自然に勉強する雰囲気がありました。

 さきほどの話、つまり、強烈に「死にたくない」と思ったのは小学2年生の頃のこと。曾祖母が亡くなったことがきっかけとなって「人は死んだらどうなるんだろう」と考え始め、「死にたくない」という思いに至りました。そのことを考えると、いつも泣きそうになっていました。ぼくはこの強烈な思いから解き放たれるために、「死」に対する何らかの解決策を見つけなければなりませんでした。小学生のぼくが思い至った解決策は「死なない薬を作る」ということ。ですから、小学校の高学年の頃は、周囲に「いつか、死なない薬を作るんだ」と公言していました。祖母にもよく「死なない薬を作る」と言っていたらしいです。

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 ある時、父から「篤は、死なない薬を作るために、まず、何をするの?」と聞かれました。ぼくが「うーん、薬を作るんだから……まず、薬剤師になるよ!」と答えると、父は「薬剤師か。新しい薬を開発するなら、薬剤師じゃなくて医者になるのがいいんじゃないかな」とつぶやきました。その父の一言が、「医者を目指そう」と思い始めたきっかけになったんだと思います。文集などで、「将来、なりたい職業」を書く時、小学4年生くらいまでは「プロ野球選手になりたい」と書いていたんですが、5年生か6年生くらいからは「医者になりたい」と書くようになりました。

 中学生になったあたりから「死なない薬を作りたい」と公言することはなくなりました。さすがに、友だちから馬鹿にされちゃいますからね(笑)。だけど、中学、高校と成長していく間も、心の底ではぼんやりと思い続けていました。

 高校生の頃、夜中に心がパニック状態になったことがあるんです。小学生の頃から考え続けていた「死んだらどうなるんだろう?」という問いを考え続けて、どうにも答えが出なくて、起きているのに悪夢を見たような状態になって、恐怖が襲ってきました。ほとんど一睡もできませんでした。

 翌日、そのことを友人に話し、「お前、どう思う?」と聞いたら、「だって、しょーがねえじゃん」という答えが返ってきて……。それで少し落ち着きました。落ち着いたというよりも、少し悟ったという感じかな。それまでも、親に同様の質問をぶつけると、「そういうものなんだからしょうがない」という答えが返ってきてましたから。「みんな、そういうふうに割りきって生きてるんだな」と思って、ぼくもそうしなきゃと自分に言い聞かせた記憶があります。

 大学は東北大学の医学部に入学しました。もちろん、小学生の頃から目標だった医者になるために。

 医学部で勉強していくうちに「やっぱり、死なない薬ってのは無理があるよなぁ」とはっきりと思うようになりました。それでも「薬を作る」ということには興味があったので、基礎修練で、薬理学に行かせていただきました。そこでいろいろと実験をやらせていただくわけですが、この時に自分が致命的な不器用であることを再確認して「実験系はぼくには向かないな」と思ったんです。そして、「地域の方々を治療する医者になる」という方向に転換することにしました。まあ、やっと、このあたりで大人になったのかもしれません(笑)。

 医者としての初期研修は、山形県立中央病院でした。ぼくの中の元々のモチベーションが「死なない薬」でしたから、なるべく多くの方々がかかる病気にアプローチしたいなと思って、循環器疾患を中心に研修をしようと思いました。そこで、心筋梗塞の患者さんがカテーテル治療を受けて、すぐに良くなっていく様子を目の当たりにして「本当に医学ってすごいんだな」と感動しました。で、感動したあとに、はたと思ったんですね。「こういう症状(心筋梗塞や狭心症)が出る前に防げたらもっと素晴らしいじゃないか」って。この時に、ぼくの中の目標が「死なない薬を作ること」から、「病気になる前に防ぐこと」に変わりました。そして、そのことを、病院(山形県立中央病院)でお世話になっていた先生に相談してみたら、こんな答えが返ってきたんです。

「それなら、君は『公衆衛生』に行ってみたらいいんじゃないか」。

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