未知のなかば 未知先案内人

interview

第1回 「寄り添う者、遺伝カウンセラー」を育てるということ

転機となった遺伝カウンセラーとの出会い

SeattleCh シアトルの小児病院の遺伝外来は、医療スタッフふたりがチームとなって対応していました。医師と遺伝カウンセラーです。たとえば、医師が診察をして疾患の診断をし、今後の病状の予測など、話しづらいことも患者さん(子ども)の家族にお話しする。それが終わると、医師は「これで今日の診察は終わりです。この後、遺伝カウンセラーとゆっくりとお話ししていってください」と告げ、家族と握手をして去っていく。すると、今度は家族と遺伝カウンセラーがソファに座って話し始めるわけです。時に、母親が涙したりという場面もあって、遺伝カウンセラーは母親の手を握ってともに共感し、話を聞きながら励ましていく……そこに遺伝医療の奥の深さ、米国のヒューマンリソースの充実ぶりなどを感じ、「日本では、こういう医療はまだないな」と痛感しました。もちろん、シアトルの小児病院は、ある程度、豊かな方々が来院する病院だったので、そのような診療が実現していたのだとは思います。しかし、私はそこに「臨床としての遺伝医療」の理想型を見た気がしました。そして、それが私にとって「人生の転機」になりました。当時、日本でも遺伝学の研究は盛んに始まっていましたが、「臨床としての遺伝医療」はまだ、ほとんどありませんでした。そのような医療を日本で実現したいと痛切に思ったのです。

帰国———臨床遺伝医の先駆けに

 米国で「遺伝医療との出会い。遺伝カウンセラーとの出会い」という人生の転機を迎えてから、私は「日本で臨床としての遺伝医療を始めているところはないか」と思って探し始めました。すると、信州大学でそのような遺伝医療を立ち上げるという情報が入ってきました。推進しているのは福嶋義光先生【編集部註:現在、日本人類遺伝学会理事長】。米国から福嶋先生にFAXを送りました。ぜひ、遺伝医療をやってみたいという熱い思いを綴って。私は95年に米国から帰国したんですが、帰ってきてすぐに福嶋先生にお会いしました。帰国した時は出身大学(東京慈恵会医科大学)に戻ったのですが、福嶋先生とのコンタクトを続けて、2000年に信州大学医学部附属病院遺伝子診療部に移りました。とうとう、臨床としての遺伝医療にチャレンジする機会が訪れたんです。

 信州大学では実際に遺伝子診療や遺伝カウンセリングを始めました。まだ、遺伝カウンセラーという職種が生まれていなかったので、米国での遺伝カウンセラーに相当する役割については、看護師、助産師、心理士が担っていました。当時、信州大学遺伝子診療部は遺伝医療の最先端でしたが、まだ、臨床遺伝医は少なかったですね。ともあれ、様々な診療科と恊働するシステムを立ち上げ、日本での遺伝子診療をスタートしました。信州大学に2年間在籍した後、2002年に長野県立こども病院総合周産期母子医療センターに移り、遺伝科を開始しました。この病院には8年間在籍していたのですが、信州大学遺伝子診療部とも連携しており、遺伝医療に関する様々な経験をすることができました。

現場で感じた、遺伝医療の難しさ

 実際に日本で遺伝医療や遺伝カウンセリングをやってみて「やはり米国で見てきたかんじとは違うな」と思いました。あくまでも人それぞれの個人差なのかもしれませんが、米国の患者さんやご家族は自分の思いをとてもよく話します。しかし、日本の患者さんやご家族は「控えめ」といいますか、なかなか思いを話してくれない方も多いです。その理由のひとつとしては……まだ話す準備ができていないのかもしれないということが考えられますね。本当に話せる段階になっていないのかもしれない。ですから、病気についての必要な情報を聞いていただいて……でもそれ以上は……「どう受け止めたのか」、「どう感じたのか」といった気持ちの面や「自身にとってどのような意味があるのか」などをうかがうには、「待つ」以外にないということも多々あります。そんな中、半年に1回ぐらい、継続して経過を診させていただいているうちに話しだしてくれることが多いのです。長野県立こども病院にいる時も、「患者さんやその家族への接し方」はとても難しいなと思っていました。そして、だんだん「医者が遺伝カウンセリングのすべてを担当することの難しさ」を感じるようになっていきました。

 たとえば、生まれて半年くらいのお子さんに心臓病があるので遺伝子検査をしてみたら染色体異常があることが分かったとします。それで、これから知的な遅れが出るだろうということが分かった。そういう話を、医者としては将来の見通しも含めて家族にきちんと説明しなければならない。まず、そのような重い話を説明する時の言葉の選び方が難しい。細心の注意を払って、どんな言葉を使って説明しても、やはり、「信じたくない」「そうならない可能性だってあるじゃないか」という反応が返ってきたり、ショックで落ち込んだりということになります。そういう時に、客観的な説明をした医者が、直後に「だいじょうぶですよ」と言って患者さんやご家族と同じ立場に立つのはなかなか難しいんですね。「厳しい事実を宣告する者(医者)」とは別に、「当事者と同じ立場に立って寄り添う者」が必要なわけです。当時のこども病院の遺伝科では、遺伝カウンセラー的な役目を看護師が担当して一緒に外来をやっていました。その頃(長野県立こども病院時代)は、まだ自分が「遺伝カウンセラー養成課程に移る。遺伝カウンセラーの教育者になる」とは思っていなかったですね。

 その後、恩師の福嶋義光先生から「これからの時代は遺伝カウンセラーを養成する教育が大切なので、やってくれないか」というお話がありました。私は「当事者と同じ立場に立って寄り添う者」の必要性を常に感じていたし、米国でも遺伝カウンセラーの素晴らしい仕事を見ていたので、「ぜひ、遺伝カウンセラー養成教育をやってみたい」と思いました。それで、2009年にお茶の水女子大学大学院人間文化創成科学研究科ライフサイエンス専攻遺伝カウンセリングコースに移ったんです。この時に、遺伝カウンセラーの教育者に転身したことになります。

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