東北メディカル・メガバンク機構

キャラバン

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どこまでも、
その命を
つなぐために。
千葉美由紀
看護師
キングス・ガーデン宮城
南三陸訪問看護ステーション所長
第1回 どこまでも、その命をつなぐために。
継承のphrase
常に被災地とともに歩み続けるToMMoは、「被災地住民の健康の継承」のみならず、震災により途切れたあらゆる「人間の営為」が継承されていくことを願っています。そこで、「継承していきたいこと、もの」、「継承という言葉を聞いて頭に思い浮かぶこと、もの」などを綴ってくださいとお願いして、実際に「継承のphrase」を手書きしていただきました。
第1回 どこまでも、その命をつなぐために。

はい、気仙沼の出身です。元々は病院で看護師をしていたんですが、2002年からはずっと訪問看護の仕事をしています。東日本大震災当時はこの訪問看護ステーションで主任の職にありました。もちろん、あの日のことは鮮明に覚えています……。

訪問バックひとつを抱えて逃げたあの日

東日本大震災が発生した10分後、私はクルマで仲町の訪問看護ステーションに向かっていました。「何かあったらステーションに集合する」という所内の取り決めがあったからです。地震後の津波を恐れて多くの人々が海から離れるように逃げていましたが、私一人が他のクルマの流れに逆走する形でステーションに戻りました。ステーションの床には物が散乱していて「誰が戻ってきて、誰がどこへ行ったのか」が分からない状況でした。今、考えれば、金庫の中のものなどを持って逃げるべきだったと思います。しかし、「津波が来るかもしれない」と思っていたあの時はそんな余裕はなく、「訪問バッグ」ひとつを持って気仙沼市民会館に逃げました。訪問バッグですか? 私たち看護師が利用者さんのお宅を訪問する時に持って行くバッグです。看護のための七つ道具が入っていて、これさえあればかなりのことはできるんですよ。
市民会館は……逃げ込んできた人々でごった返していました。ものすごい人口密度でね。ステーションの仲間たちとは市民会館の前の公園で会えたんです。それから、仲町の開業医、村岡先生も避難していらっしゃって「怪我人病人の救護をするので手伝ってくれないか」と頼まれました。あの時、市民会館には手当が必要な方々が続々と運ばれてきていました。もちろん、快諾して救護の手伝いをしました。その晩は救護をしながら市民会館で一晩過ごしました。とても寒くてね。停電していたので暗かったし……近くの小学校で配給された毛布や、外したカーテンを「寒い」という方々に掛けてあげたりしていました。でも、カーテンや毛布は数が限られていたので、足りなくて……ゴミ袋や新聞紙を巻いて寒さをしのぎました。この時はまだ知らなかったんですが、地震後に私が一度立ち寄った訪問看護ステーションは、その後、津波に流されていました。あの時、高台にある市民会館まですぐに避難したことによって、私の命は救われたんです。

救護。看護。そして、安否確認

震災の翌日からは、気仙沼中学校に救護ブースがあったので、毎日通って救護の手伝いをしました。この救護ブースにはいろいろな情報が集まってきていて、自分たちがお世話をしていた方々の、つまり、訪問看護ステーション利用者さんの安否もかなり確認できました。後日、自衛隊の救護班のブースが気仙沼中学校に設置されたんですが、それまではずっと通っていましたね。私自身の家は津波からは無事で、家族も他の地域に住んでいましたから、特に被害はありませんでした。ですから、ひたすら救護をやっていました。救護をしながら安否確認をしていって、結局、私たちが訪問していた利用者さんのうち、4割の方々が震災で亡くなっていたことが判明しました。やりきれない気分でした。
本来の仕事、訪問看護を再開したのは3月17日です。通常はクルマで巡回するんですが、6台あったクルマのうち5台が津波で流されてしまったので、再開当初は歩いて利用者さんのお宅にうかがっていました。自分たちも被災していたわけですから、普通であれば仕事を再開するかどうかを躊躇するのかもしれません。でも、私たちとしては「どんな形でもとにかく訪問看護を実行すること」が大前提でした。「あの人はどうしてるかな。大丈夫かな。そろそろ、おしっこの管を交換しなきゃいけない時期なのに」といったことが次々に頭に浮かんできて「とにかく行かなきゃ」と思っていました。もちろん、カルテもすべて流されてしまったし、停電で様々な機器も使えなかったんですが、訪問バッグひとつあれば、何らかの看護は可能ですから。

どんな時でも、自らの命を守るために

……思えば、震災後は全国の方々から実に様々なご支援をいただきました。看護のための物資もいただきましたし、クルマも3台、レンタルしていただきました。本当にありがたかったと思います。
当時はライフラインがすべて停止していたので、利用者さんにも相当の影響が表れていました。特に多かったのは「床ずれ」ですね。停電でエアマットが使えなくなっていたので床ずれが多発しました。それから、震災が発生したのが14時45分頃でしたので、その時間帯は皆さん、電動ベッドの背の部分を45度くらいに起こしていました。そのままではよく眠れないでしょうから、床に布団を敷いて移したりして……停電で人工呼吸器や吸引器も使えませんでしたから出来る限りのことを手作業で行っていましたね。
電気が復旧するまでの1ヶ月間はそうやって手動で何とか看護を続けていました。その後、徐々に様々なものが復旧していって通常の訪問看護活動に戻っていったわけです。
震災後、今までに何度も思い起こしたことは「災害時は誰もが『自分の命は自分で守る』という覚悟を持って、事前に準備をしておくべきだ」ということです。災害時に停電してしまった時のために……たとえば、人工呼吸器を使い続けるためには、家庭用発電機を使う、ソーラーパネルを使う、クルマから電気を引くなどの方法で多様な電源を確保しておくということ。吸引器であれば、手動式や足踏み式の吸引器を準備しておくことが必要です。注射器と吸引カテーテルがあれば、簡易式のものが作れます。災害時は救急車を呼んでもなかなか来てくれません。実際、東日本大震災の時には救急車は2時間後くらいに到着していた記憶があります。ですから、救急車が来るまでの時間を自分たちでどのようにして命を繋げるかが必要になってくると思います。事前の準備をしているかどうかで、生死が分かれてしまうことになります。私たちは「利用者の皆さんが自ら命を守るために準備しておくべきこと」を検討し、災害時のマニュアルを見直しました。
現在の私たちの悩みは、働く人が集まらないことですね。看護師も介護職も、とにかく人手が不足しています。震災後、気仙沼の人口が減ってしまったことも影響しているのかもしれませんし、震災によって働けなくなった有資格者が多いということかもしれません。 
私にとっての「継承のフレーズ」ですか?  やはり、「寄り添う心」ですね。寄り添って支えることが私たちの仕事……。今後、また災害が起きたとしても、どこまでも看護師として寄り添い続けていくことが自分の生き方なのだと思っています。

【 2015年3月25日。気仙沼 キングス・ガーデン宮城 キングス・タウンにて】

(担当:清水修)

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